中嶋彰子さん/声楽/オーストリア・ウィーン


15歳でオーストラリアに渡り、シドニーで音楽教育を受ける。1990年の全豪オペラ・コンクール優勝を機に、シドニーとメルボルンのオペラハウスにてデビュー。1999年、ウィーン・フォルクスオーパーと専属歌手契約を結び、その卓越した歌唱力と演技力、華やかな存在感で圧倒的な人気を獲得。一躍劇場のトップスターに。イタリア・ベルカント・オペラからモーツァルト、シュトラウス、ヴェルディ、そしてフィリップ・グラスなどの現代作品まで、幅広いレパートリーも魅力のひとつ。
 
- まずは簡単な経歴から教えて下さい。

中嶋 北海道で生まれて10歳までは釧路市で育ちました。工学博士の父の仕事の関係でその後は東京、15歳からはオーストラリアのシドニーへ移住しました。音楽好きの父の影響で、小さい頃から音楽がそばにありましたね。シドニー音楽大学在学中に、専門の指導者のもとで声楽の個別レッスンを3年間受けました。1990年、日本人では初めてなのですが、全豪オペラコンクールに優勝したのです。その時の副賞としてヨーロッパに行くチャンスがあったのですが、オペラハウスにデビューをしたので1年間オーストラリアで活動していました。その後、イギリスのアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックからお仕事が入り、シドニーオペラハウスに2カ月の休暇を頂いてロンドンへ渡りました。もちろん、ロンドンでもじっとしていられなくて、コンクールやオーディションを積極的に受けて回りました。
 
- 直接ウィーンではなくロンドンだったのですね。

中嶋 はい。まずはロンドン、そしてオランダへ行って国際コンクールにも出場しました。ヨーロッパでのレベルがどのくらいなのか、力試しで受けてみたのです。
 
- その時の結果はいかがでしたか?

中嶋 3位入賞でした。お陰でいろいろな先生からお声を掛けて頂いたり有益な情報を教えて下さって、次はイタリアに行こうと思ったのです。それで、イタリアでは自分で直接劇場に行ったり、電話をしてオーディションをしていないか問い合わせしました。
 
- それは、飛び込み訪問のような感じですか?

中嶋 はい、随分と驚かれました。普通はエージェントがいて交渉事をするのですが、私の場合は新人で誰も助けはいませんでしたから、この際試してみようと思い、勇気を出して「オーストラリアからきた26歳の日本人です。エージェントはいません」という感じで、直接交渉でした。
 
- すごい! 積極的ですね。

中嶋 そうなのです。色々ありましたが、4,5軒の劇場でチャンスが到来しまして、気づいたらオーストリアで2件イタリアで3件仕事が入ってきました。突然転がって来た仕事もありました。インスブルックのバロック音楽祭に関わっているイギリス人の指揮者は「声楽家を育てる」ということを、オランダのコンクールで教えてもらい、レッスンしてもらいたく電話帳で相手を探してアポイントを取り伺いました。するとレッスン中に先生が主役の方が降板するお話をし始め、私に主役として参加する気はないか?と話が転換しました。音楽祭の芸術監督兼指揮者だった事も知らずにレッスンしてもらっていた私は腰が抜ける思いでしたが、毎日コーチをしてくれるなら頑張ると約束し、ヘンデルのオペラ「アルチーナ」のタイトルロールを2週間で暗譜し、舞台に立ちました。とても大変でしたが、何も知らない=恐れ知らず、みたいな、今思えば貴重ないい経験でした。(笑)
 
- 何だかとてもドラマティックで、オーストラリアを出て2年の間にすごい展開のお話ですね。

中嶋 今思うと、そうですね。2か月の予定がロンドン、ナポリ、インスブルックとあっという間に数年がたった感じです。ヨーロッパへ拠点を移すきっかけとなったのが、インスブルックの小さな劇場での専属契約のお話だったのですが、正直いって迷いました。シドニーオペラハウスは国際歌劇場で、ステータス的にははるかに上でしたから。
 
- 決心された理由はなんでしたか?

中嶋 実は名の知れない小さな地方歌劇場に専属歌手になるなんて!と誰もが反対しました。でも私はオーストラリアで音楽の教育を受けた日本人・・・語学的にも文化的にも私はまだまだ勉強不足だと知っていました。オーストラリアでは将来を約束される大役が待っていて、キャリア的にはそれを捨てるなど、とんでもない事だとは分かっていましたが、若い今を使わなければ、本物にはなれないと直感したんです。初めて来たヨーロッパで、こんなにたくさんお仕事のチャンスを与えられたのは、きっと運命だろうとも思いました。オペラを生んだヨーロッパをもっと知ってみたい、オペラで歌う語学をしゃべりたい。この土地に腰を据えて生活し、人々と語り合い、本当の文化人になりたいと思ったのが理由です。
 
- オーストラリアへは、ぜんぜん戻られなかったのですか?

中嶋 全然戻っていないですね。1996年に一度だけバズ・ラーマンの「ラ・ボエム」のムゼッタ役のため出演しました。
 
- 流れがとても急なのですが、そのような中で特に気を付けていた事はありますか?

中嶋 国際的な仕事場は甘くありません。実際は戦場の様なものです。甘く見ていると直ぐに隣や後ろに構えている歌手に自分のポジションを狙われます。そんな中、身体の大きな欧米人とどう渡り合っていくか、そして自分なりに、かつ社交的に、しかし無理をして体調を壊さず毎日の仕事をこなして行くかなど、気を使う事はたくさんです。健康が第一でした。休む時は休み、仕事は精一杯楽しくするよう心がけていました。
 
- その戦い方は、ご自身で試行錯誤のような感じですか?

中嶋 そうですね。私が進んだ道には目印が無かったですから。シドニーに移った15歳の頃から、どうすれば国際社会で溶け込んでいけるのかというのは大きな課題でした。学校内でもイジメはありましたし、揉まれ方が全然違います。頑張りすぎて失敗する事もよくありました。
 
- 日本と海外との違いはどのようにお感じなりましたか?

中嶋 過去に強く感じた時は、例えばオランダのコンクールの最終日です。私は母国語と英語ができるので国際的な場面でも上手くやっていけると浅く思っていました。ところがそこにいたロシア人、スウェーデン人、トルコ人、メキシコ人などは母国語、英語はもちろん、優れた語学力で何カ国語も交わし、社交的な最終日の場所では冗談を言ったり、社会問題を口論し合ったりと上手に対応できる芸術家のひよこ兼社会人達でした。それに比べ、内気な日本人は日本人同士で固まるか、冗談などはもちろん飛びませんし、情報交換など国際人としての自覚が薄いので上手くできず、せっかくの交際のチャンスを失ってしまいがちでしたね。教科書で勉強する語学とコミュニケーションをしたくて伸びる生きた語学力の違いでしょうか、大きな違いを感じましたね。プロの歌手も割合的に海外に日本人が少ないのも才能というより、そう言った所にも問題があるのではないかと私は思います。
 
- 20年のキャリアからなる言葉ですね。

中嶋 やるべき事は技術だけではなく、芸術家としての姿勢がどうであるかということで自分らしさを素直に表現するに尽きると思っています。そこで自身が持て、道が開くのではないでしょうか。
 
- 芸術家としての姿勢を教えることは、難しく感じますが。

中嶋 いえ、実はそんなに難しくないのですよ。先を見ている人がほとんどですから。どこの国の方でも、海外で頑張って勉強をするとなると、相当な覚悟していらっしゃいます。正しい鍵があればドアは簡単に開くといった感じかしら。また教える立場としては、天性的に優れた歌手からいい生徒は生まれないといわれますし、苦労をしている声楽家の方がいい先生になれるとも言われます。
 
- 教える方も大変ですね。

中嶋 声楽の場合は、身体が楽器ですから、その人それぞれに合った技術を考えるのが大切な事ですね。新しい技術を取り入れることでも今迄のものが崩れたりします。例えば、ドラマチックな歌手がレッジェーロな歌手に私のやる通り歌いなさいといってもそれは無理です。理想は悪い癖や、恐怖感などをほぐし、自然体に戻してあげる事だと私は考えます。歌手の勉強は語学、発声、発音、反響盤である体の仕組みの理解など教えることは欠かせませんが、それだけではなく時代や地位の違う役柄の理解、哲学的な事にも触れて教えます。
 
- 努力がまったく違うのですね。

中嶋 そうですね。ただこちらのシステムもいいと思いますよ。音大に行かなくても、本当に習いたい先生に習うシステムはいい事だと思います。わたしも経験者です。
 
- 中嶋先生には、春にもウィーンの講習会でお世話になる予定です。ところで、音楽はお父様の影響だとお聞きしましたが、声楽を選ばれた理由はなんでしょうか?

中嶋 歌好きは父譲りなのかもしれません。まだ北海道にいた幼い頃に、よく大自然の中で自作の歌を口ずさんでいました。具体的には中学2年生の頃に、全校生徒の前でシューベルトを歌う機会があって、その時に声楽に目覚めたのだと思います。ただ、オペラはうんざりというか好きではなかったですね。
 
- まさかこんな展開になるとは、ですね。

中嶋 そうですね、いいオペラに出くわしたというのか、自分が知っているものとは全然違っていたので衝撃を受けました。それからです、もっと知りたいと。
 
- ウィーンで声楽家として活動されていていい点と悪い点はありますか?

中嶋 いい点はウィーンには常に音楽があり、声楽家である事は市民に尊敬され、大切にされる事です。劇場に通うお客様は毎日のようにいらっしゃるので「今日は昨日とくらべて」なんてお客様同士で情報交換されるので、毎日がチャレンジであることは歌う方も刺激になり良い事だと思います。悪い点というのか、時折演技者の方でアドリブが入ることがあるのですが、私は対応が出来ないのでやめて下さいとお願いしています。もちろん、プロですから台本通りには舞台の上では進めるわけですが、たとえば日本人だから訛りがあるなんて許されることではありませんので、しっかりとコーチングを個別でレッスン料を支払って受けます。
 
- たいへんですね。

中嶋 舞台裏はそのようなものですね。言い訳は一切ダメです。
 
- 日本人として有利だったことはありますか?

中嶋 ないです。まず舞台に立つ時、私が日本人であるといった意識が特にないというのもありますが。日本人観光客の方たちが来られて、応援して下さるなど嬉しい事もありますが、日本人だからと特別扱いは一切ありません。
 
- ウィーンで成功を勝ち取られた理由はなんでしょうか?

中嶋 毎日の地道な努力や研究に尽きますね。また、そう言った勉強を楽しんでいます。興味があるから続けられる、やりたいことをやれる幸せなことだと感じています。ここウィーンは音楽好きがたくさんいます。皆さん親しみをこめて声を掛けて頂いたり、アドバイスを頂いたり幸せな環境です。
 
- 好きだから続けられる、ということですね。

中嶋 もちろん、そうですね。
 
- 逆に好きでもできないことはありますか?

中嶋 人との関係です。たとえば演出家であったり、パートナーであったり、合わないと感じることもあります。あとは、体調を崩した時ですね。もちろんプロですから、仕事として責任感があるわけです。ましてソリストはピラミッドでいうと頂点の存在です。選ばれた人として、責任を果たさなくてはなりません。なので、役は好きでも指揮者や演出家との絡みの問題で満足な仕事ができないと思った時はきちんと断ります。そしてムリをしないことです。ムリをすると体調を崩し結局は他人に迷惑を掛けます。皆さまに満足をして頂くためにも、この2点は必ず守っています。舞台人は常に心身共にベストを尽くすよう心掛けるのが大切です。
 
- なかなか難しい境地だと思いますが。

中嶋 よく仲間と話をしますが、音楽家と芸術家の違いはなんだろうと。ただ音を出すだけではなく、表現をしなくてはだめだと思うのです。限られた音符でいかに表現するか、楽譜では表現しきれない音をどう伝えていくのか、です。
 
- とても深い内容ですね。やはりそれは海外での音楽活動から得られた境地ですか?

中嶋 大きな劇場では同じ出し物を何年も繰り返し上演します。よって同じ役をたくさんの歌手が歌います。自分なりの音楽が無ければ仕事は回って来ません。劇場に選んでもらえる歌手になるには、勉強は机の上だけではない分けです。ですから海外留学の場合は特にその国にしっかりと浸っていろいろなものをみて吸収してほしいですね。旅行者の視点ではなく生活者として経験する事は貴重な経験になると思いますです。おしゃべりしたり、考え方の違いを発見したり。国によって音色も違うのですよ。何にインスピレーションを受けたか考えたりしましょう。すると音楽を深く理解できます。
 
- ウィーンで日本人の学生をみて、もったいないと感じることはありますか? 

中嶋 日本人同士でかたまってしまう傾向があることですね。現地の友人をたくさん作ればいいと思います。たとえばペンフレンドでもいいのです。細く長く付き合えるような。その思い出は必ず自分に何かを残していきます。
 
- ウィーンを楽しむ何か秘訣のようなものはありますか?

中嶋 自分でウィーンを探すことです。ガイドブックに頼らないで、自分しか知らないウィーンを見つけて下さい。自分で探せるところがたくさんあるのですよ。私も日本に行った時は、自分の足で日本を探します。
 
- 自分で体験する大切さですね。

中嶋 好奇心は大切です。
 
- これからの音楽的なビジョンをお聞かせ下さい。

中嶋 私今40代後半なのですが、50代の声楽家は何をすべきなのか、を考えています。役柄もどんどん新しい役をレパートリーに入れていますが、最高の演出家とオペラの大役を徹底的にこなしたいです。それとは別に、これからは制作や演出も手掛けていきたいなと思っています。
 
 
- クリエイティブの血がさわぐ…という感じですね。

中嶋 今年は演出作品が2本あります。その1つは、シェーンベルグの「月に憑かれたピエロ」とお能を混合した舞台作を12月に予定しています。この夏には、群馬国際アカデミーで600人ほどの子どもたちの詩や作文を素材に脚本とした音楽劇を公演したのですが、とてもいい経験になりました。
 
- すごいですね。そのきっかけはなんでしょうか?

中嶋 昨年3月の震災以降、しょんぼりというか元気のない前向きになれない日本の様子にジレンマを感じてしまい、今後のために何かしなくてはと思ったのです。そして日本人は元気だよと、世界にアピールしたかったのです。
 
- 大がかりですね。いかがでしたか?

中嶋 子どもたちと一緒に汗をかいて何かをやり遂げたという大きな達成感はすばらしいものでした。ワークショップも大成功で、DVDの発売やテレビでも10月に放映される予定です。
 
- これからも何か企画はお考えですか?

中嶋 音楽の力をベースとして、根本的な何かを伝えていく、歌ってよかった聴いて良かった、と観客の皆さんと感動を共にできるような企画をしていきたいですね。また、技術ばかりではなく、また技術があるからこそ聴かせられる音声表現、そして自分の持っているものや持っていないものを全てさらけ出せる、勇気を持って自分を表現出来る、そんな素晴らしい音楽家を育ててみたいと思います。
 
- 中嶋さんにとって一言でいうと音楽とはなんでしょうか?

中嶋 哲学的なのですが、音楽とはスピリチュアルな「生きる」という意味を感じさせられるものだと思います。生きている瞬間を感じさせるというのか考えさせる力が、音楽にはあると信じています。それは神への感謝に近いものかもしれません。私は北海道という大自然の中で育ったのですが、寒い時に太陽の暖かさに感謝するような、あるいは孤独さ、切なさ、生きているから感じる思いが音楽に存在する、そんな感覚です。それは理屈ではなく生きているものには必要な何かだと思うのです。
 
- そこには何か答えがあるのでしょうか?

中嶋 いえ、ないと思います。感じる者それぞれが個人であるから。だから、私は壁のない音楽家になりたいと思っています。壁がなければ、音楽家の魂がふっと出ていくことが出来ます。また、そんなことが出来る技術を磨いていきたいし勉強をしていきたいですね芸術を文章にすることはとても難しいのですが…。
 
- むずかしいですね。では最後に、海外で勉強をしたい若い生徒さんへ何かアドバイスをお願いします。

中嶋 海外に出てみることは、絶対大切なことです。視野も広がりますから。またその経験によって見えることもありますし、日本の良さも感じるでしょう。そして海外へでたら他人を頼らないで自分で頑張ってみる、自分で道を開いていくことを心掛けて欲しいです。どうぞ、羽を拡げて外へ出てみて下さい。
 
- ありがとうございました。

 
 
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